人生ドミナント
ジャズポピュラー音楽理論で、ダイアトニックコードというのがあって、それぞれ機能がある。
トニックは落ち着く感じ、サブドミナントは少し不穏な感じ、ドミナントは不穏な感じ。
ドミナントからトニックへの動きをドミナントモーションと言うのだけど、不穏からの平穏という、おおよそ世に出ている音楽の大半はこのモーションをしているであろう常套句だ。
ドミナントのテンションが沢山あれば、トニックへの解決感はあるわけで、例えるなら悩みが大きいほど、その悩みが解決されたときの開放感は大きい物になる。
さて人生に例えるなら、ドミナントに♭9、♯9、♯11、♭13。。。
オルタードテンションなんだけど、最高に不穏な響きだ。
でもいつかは解決する。
だってオルタードで終わったら気持ち悪いもん。
コンテンポラリー音楽なんかは解決しないで曲が終わる事もあるかもしれないけど(笑)
人生山あり谷あり、たまにはこんな不穏なドミナントも良いスパイスかな。
ラフミックス
いつもお願いするエンジニアさんからラフミックスが送られてきた。
良い感じ!
これは名作の予感。。。
完全に自己満足だけど(笑)
でも、これくらいの気持ちじゃないと曲を世に出せない。
アーティストは自信過剰であれ!
その自信が世の中を変えてゆく。
継続は力なり。
コツコツと一歩一歩ね。
自己肯定感2
さて、昨日の続き。
日本人には自己肯定感が少ない。
それは教育と、社会システムの影響が大きい。
日本には圧倒的に自由がない。
しかし、自由への憧れはある。
だから、自由に生きる人、自由に行動する人への羨望があり、裏返せば妬み、嫉妬になる。
自分だって苦しい思い、しんどい思いをして生きてるんだから、みんなもしんどい思いをして生きていくべきだ、と。
それが社会人だ、と。
協調性という鎖でガチガチにし、社会の組織の歯車として教育されれば自己肯定感なんて育たない。
インターネットなどの情報技術の著しい発展の中で、日本は世界からかなりの遅れをとり、今でも追いついていないどころかどんどん引き離されている。
なぜ、appleやGoogle 、マイクロソフト、Facebook、Amazonがアメリカで設立されたのか。
そこには、自己肯定感、他者を認める社会があったのだろう。
なぜなら、普通、自分の子供が大学も辞めて、よくわからないパソコンなんていう機械を作っていたら日本の親ならこう言うだろう。
「そんな遊んでないで、ちゃんと就職しろ!公務員か、東芝みたいな一流企業に入れば一生安泰だぞ。」と。
~続く~
自己肯定感
最近何かと話題の労働という話題。
電通の過労死事件を発端とした労働の問題。
なぜ、過労死するまで働くのか。
なぜ、逃げないのか。
その根底にあるのは自己肯定感だと思う。
日本というのは、子供の頃からこの自己肯定感を持たせる教育をしていない。
それには日本という国の特色として、集団や組織に基づいた社会、コミュニティというのがある。
もちろん、集団で何かをする、組織を作って何かをするというのはとても効率的で合理的だし、資源の少ない日本の発展には欠かせない要素だと思う。
しかし、問題は、その集団や組織が何のためにあるかという事だ。
個人の幸せを追求するため、個人では出来ないことをするため、色んな人が集団になって個々の能力を補い合い、世の中に役立つため発展を目指す為の組織なのか。
組織の発展を第一に考え、個人はその為の駒に過ぎないのか。
今の日本は明らかに後者だと思う。
もちろん、他者の為に自分を犠牲にすることは、時として必要な事かもしれない。
しかし、自分を殺してまで他者に尽くす必要はない。
逃げるが勝ち。
今苦しんでる人はこの言葉を思い出せばよい。
自分を殺してしまうような状況だったら全力で逃げれば良い。
幸い、今の日本は逃げる事ができる。
~続く~
創作意欲
創作意欲は止まらない。
まだ2ndCDが完成してないのにもう3枚目の構想を練っている。
意欲はあれど、問題は時間とお金。
時間はないのではなく作るものという自負はあるが、それにも限界があるし、お金にも限界がある。
関係ないが、ひょんな事からプロデュースを依頼された、プレイヤーとしての依頼はあれど、プロデュースの依頼は初めての事だ。
クライアントとの打ち合わせでは壮大な構想が。
このワクワク感がたまらない。
失敗するか成功するかなんてやってみなきゃわからない。
とりあえず、頭で考えるよりも動いてみよう。
好きなことを仕事にするには
僕にとって音楽は息をするようなもので、好きとかそんな次元の話しではない。
だから、音楽をしなくなる=息をしなくなる=死ぬ。
実際に死ぬとかではなく死んだような人生になるということだけど。
まだ短い人生の中で、どんな苦しい時も音楽だけは辞めようと思ったことはない。
いや、厳密には一度だけある。
東京でプロのスタジオミュージシャンになり、傍から見れば成功している人に見られていたのだが、諸事情によりある時を境に音楽活動ができなくなり、東京から引き上げて実家に帰る日の朝、目覚めたら、心の中から終わったなって思った。
それは、辞めるという感覚ではなかったのかもしれないが、それまでの人生で感じた事のないある種の予感、感覚だった。
でも結果的に、実家に帰ってからも頭の中の音楽は止まる気配はなく、それからもずっと音楽を作ったり奏でたりしてるわけだけど。
風が吹く瞬間、風向きが変わる予感というのは今までの人生で感じたことがあるわけで、それを少し感じた、今年の春。